清水湊 実相寺の第33代(先代)住職であり、徳川家位牌祀りの菩提寺である大樹寺の御貫主(住職)となられた明誉上人が出演されたテレビ番組が期間限定で公開されています。よろしければ下記よりご覧下さい。
* 最初の投稿は、清水湊 実相寺と縁のある寺院からのお知らせになりましたので、少しご紹介をさせて頂きます。
大樹寺 | 厭離穢土欣求浄土の言葉を胸に、徳川家康公が再起を誓われた地
大樹寺の正式名称は『成道山 松安院 大樹寺』と言います。
お寺の正式名は、『山号・院号・寺号』という三つの名前を揃えることが多く、そこにはお寺を建てられた方々の想いが込められています。
大樹寺さまの正式名称には、二つの願いが込められているのではないかと拝察をさせて頂いています。一つは仏教徒としての願い、もう一つは大樹寺を創建された松平家の武家としての願いです。
『大樹』は、大きく広がる樹木ですが、仏教を開かれたお釈迦さまが大樹の下で仏と成られ、大樹の下で説法されたことから「仏」を表すことがあります。また、中国後漢の故事から武家の総領である「征夷大将軍」という意味で用いられることもあり、その両者を讃える想いが込められると共に、自らもそこに至る道を成し遂げんという願いを込めて『成道』と冠されたのではないかと拝させて頂いています。さらに、その間に『松安』の名が置かれ、そこに大樹寺創建の歴史が込められています。
大樹寺は、文明7〈1475〉年に創建されています。
当時は戦乱の時代です。戦で多くの命が奪われ、山のような遺体が塚に納められていました。ある日、その塚の周りで亡霊騒動が起きるようになり、近隣で悪病が流行りました。そこで、安祥城の城主・松平親忠公 [ 徳川家康公のご先祖 ]が、亡霊を弔う為に念仏堂を建立し、名僧・勢誉愚底上人 [ 後の知恩院23世 ] を迎えて、七日間お念仏をお唱えになられました。すると、その功により亡霊が鎮まり、親忠公は念仏堂の側に、松平家の菩提寺を建立されました。これが大樹寺の始まりです。
即ち『松安』には、松平家のご先祖をはじめ、松平家に縁の有った霊位の安らかならんことを願う思いが込められています。
また、松は冬の間も変わらず常に緑を保つことから、この願いが変わらぬようにという祈りも込められたのではないかと思われます。
加えて、『松』という字の中には「十八」という数字が隠されているとも言われます。十八は、大樹寺のご本尊である阿弥陀如来が慈悲の心をもって発願された四十八の願の中の王と呼ばれる第十八願を示す数字です。この願により、安心を求める心が込められているのではないかと思われます。
大樹寺の開山(初代住職)となられた勢誉愚底上人は、これら願いを背負って『大樹寺』と命名し、『大樹寺勤行式定』と呼ばれる定めを制定され、僧侶養成や民衆教化、戦死者の供養に尽力されました。
それから、80年ほどの時を経て、松平家に徳川家康公がお生まれになります。
家康公は、幼い頃、駿府の地で人質として育たれました。親もとから離れ、心安らぐ場所を探されながらのお暮らしでありましたが、ようやく小さいながらも一つのお城を任されるまでに成長されます。 ところが、心安らぐ場所を手に入れたのも束の間、 信長公に攻められて、 命からがら逃げ出します。「私の居場所はこの世にないのか、 命を断つのなら、せめて 先祖に詫びを入れてからにしよう。」ご先祖のお墓の前で、切腹する準備を始めました。 そこに大樹寺の住職登誉上人が駆けつけて、 手に持つ刀を叩き落とし、 「ここで死ぬは簡単じゃ。 しかしな、再び人の命を授かるのは、どれほど、難しいことか 。せっかく頂いたこの命、 そなたがここで断った所で何の役にも立たぬ。 苦しむ民の為に、この戦乱の世を生き抜いて、 太平の世を築くという 仏の教えに立ち返って下され。 幸いあなたの身体を流れる血には松平の血が流れておる。 念仏、浄土の教えを受け継ぐ者の血が流れておる。 今、あなたにも、その教えを相伝しよう。」 こうして家康公は仏の教えをにより、再起を誓われ、戦に臨む時には白黒二体の阿弥陀さまをお連れになり、戦で命を落とした者の為に「南無阿弥陀仏」と日々に書写し、 大切な戦ノボリには「厭離穢土、欣求浄土( この戦の世、人が人を憎しみ合う、この穢土、穢れた世の中は、私の本当の居場所ではない。 戦の世を精一杯生き抜いて、浄土の如き地に変え、いのちの終えた先には先祖の待つ極楽浄土という本当の居場所に生まれる。)」 と記されて、 いつか先祖に胸を張って会う為に生き抜き、 遂に江戸時代という 世界でも稀に見る平和な世を開かれました。
仏さまを拠り所として、 念仏申すと不思議なご縁に護られるということがあるものです。信長公の追っ手から逃げて大樹寺に駆け込んだ際には、到底、勝てるはずもない追手を一人の僧侶・祖洞了伝上人(静岡市葵区・松平西福寺の開山 *江戸と熊本にも寺院がある)が、目に入った山門を閉める大きな横木・閂(カンヌキ・貫木)を七十人力の怪力で振り回し、織田の軍勢を説得して追い払いました。また、ある合戦の折には、 白本尊阿弥陀如来が家康公の身代わりとなって、弓矢を受けて護って下さいました。
仏の教えを座右の銘とされた家康公のご遺訓は、
「 人の一生は重荷(おもきに)を負(おう)て 遠き道を行くがごとし 急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし こころに望(のぞみ)おらば 困窮したる時を思い出(いだ)すべし 堪忍(かんにん)は無事長久の基(もとい) いかりは敵とおもへ 勝つ事ばかり知りて 負くること知らざれば 害(がい)其身(そのみ)にいたる おのれを責めて 人をせむるな 及ばざるは 過ぎたるより まされり 」
大樹寺は、仏の教えや先人の智恵を伝えながら、家康公はじめ代々の将軍さまのお位牌をお祀りするお寺として、五百年の時を経た今も岡崎の街にあり続けています。
現在の様子が愛知県岡崎市公式観光サイトに公開されていますので、そちらも合わせてご覧下さい。